<高崎市とのやり取り詳細・・・製作中!>

 

「高崎学検定」での疑問点

社会教育課・・・①〜⑧の行政文書は不存在
①「蟹沢古墳の鏡はその年号から、まさに卑弥呼が受け取った鏡の一面とみられます」の根拠となる行政文書
②「始」が2文字目に来る中国の年号は「正始」しかなく、の根拠となる行政文書
③「もともと5世紀まで日本に馬はいなかった」の根拠となる行政文書
④「日本最古の歴史書「日本書紀」」の根拠となる行政文書
⑤「5世紀後半から~渡来人の技を導入して、榛名山麓に灌漑用水を張り巡らし」に関し、「渡来人の技を導入」の根拠となる行政文書
渡来人が果たした役割は鉄器生産であるとした根拠となる行政文書
渡来人が果たした役割は馬生産であるとした根拠となる行政文書
渡来人が果たした役割は治水事業であるとした根拠となる行政文書
 

「かみつけの里ティーチャーズガイド」での疑問点

① 古墳時代には、大陸から来た新しい技術によって、それまで作れなかったところにも、たくさんの水田が切り開かれました。・・・?
② 馬の飼育は大陸から渡来人によってもたらされた新しい技術の一つです。・・・?
③ 王は、いち早く外国の技術の重要性に注目し、渡来人を呼び寄せて、水路を開き、広大な水田を切り開いた・・・?
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「埴輪は身代わり」って本当?、について
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「古墳時代に「お金」があった」蓋然性
 

「上野三碑」での疑問点

*「多胡碑」碑文中「羊給」について・・・羊という渡来人?、初代の郡長官?、碑を建てたのも「羊」?
*「金井沢碑」碑文中「天地請願」について・・・「天地に請願し奉る」?「仏の教えによってお祈り申し上げる」?
*「山上碑」について・・・放光寺の跡地は山王廃寺?放光神社?
 

「かみつけの里博物館常設展示解説書・よみがえる五世紀の世界」およびその他図録での疑問点

 
発掘調査から、設計の技師、土木技師、専門家たちの存在、労働する人々の編成などさまざまなことが分かった、に関して
王・・・設計図を入手
技術者の長・・・総合的に管理調整
技術者・・・測量・土木のノウハウを使いこなすことができた
土を掘るムラビト・・・組織的に働いた
 
八幡塚古墳の埴輪の数・・・6000本 「約6000本」という数字の根拠
八幡塚古墳に使われた石の数・・・・・「398000個」という数字の根拠
古墳の設計比率・・・古墳造りの基本は設計図である
設計・縄張り・・・設計図が不可欠~「板や布に描かれた図」
 
「数はどんな数え方であったのか・文字はどんな文字を使っていたのか」
項目1・・・設計・道普請・資材調達・土量計算・設計企画図・組織構成の過程
項目2・・・円筒埴輪復元根拠・円筒埴輪列状況
項目3・・・築造企画・数値的な類似性・当時の設計土木技術を解明する技術史的方向が存在する・尺度・設計原理・現地施工性・入手した設計図・古墳尺度論・制度尺・身体尺・漢尺・晋後尺・測量図計測・築造計画・天神山型の築造計画・浅間山型の築造計画・上野における5世紀代主要古墳の築造計画の系列
 これらの言葉から推測すると「正確な数字の存在」は必要不可欠ではないか。
 
 
上毛野君三千(ミチチ)に関して、なぜ三千を「ミチチ」と読むのか、その根拠
 
「当時はお金の制度がない」に関して、このように言い切った(断定した)根拠
 
「流通システム」や「流通デュアルシステム」を構築する為には、その背景として、情報を多角的にやり取りする手段として、高度な言語空間(文字や数字等)が必要不可欠だったと、思われます。よって、その「流通システム」や「流通デュアルシステム」が存在したという分析結果の根拠
「地域間の結び付や生産と流通」を構築する為には、その背景として、情報を多角的にやり取りする手段として、高度な言語空間(文字や数字等)が必要不可欠だったと思われます。よって、その根拠
 
卑弥呼が魏から下賜された「五尺刀」もこのような刀ではなかったかと想像されます、と言う表記、この「想像」の根拠
質問23 そもそも、本件図録では、卑弥呼を日本にいた女王との前提(古代日本における、ある時期の史的エピソード)で捉えているようですが、その根拠 
「朝鮮半島の品物を手に入れられる立場にあった人物と考えられます。(p12)」「朝鮮半島と深いつながりをもち、舶載品を容易に手に入れることのできる立場にあった人々ということができそうです。(p15)」「この時期の首長と朝鮮半島の直接的なつながりが想像されました。(p36)」とあります。 また、常設展示解説書「よみがえる五世紀の世界」p68~70「DATA.2上毛野氏を探る」では、日本書紀の中での上毛野氏と朝鮮半島との関係を紹介しています。
これらを踏まえれば、本件図録の「人物」と、常設展示解説書「よみがえる五世紀の世界」の上毛野氏とは、なんらかの関係があるのではないかと、容易に想像がつくと思われます。しかしながら、そこに一言も言及していないことが、不思議でなりません。よって、そこに言及をしてはならない理由
国立公文書館保存文書「ホツマツタヱ」(資料1,2参照)は古事記・日本書紀の原書となっている文書であり、漢字以前の日本の古代文字(「ヲシテ文字」)であったという説があります。この「ヲシテ文字」によれば、本件図録の表紙・大刀の渦巻模様及び「柄頭」模様(p15)は「天地」を表す文字と捉えられます(p30 右中写真の模様もそれに準ずる)(資料3参照)。また、これを「天地」と捉えるとすれば、上野三碑・金井沢碑の原文「天地誓願」とも結びつく可能性が大いにあり、金井沢碑の解釈も自ずと変わってくると思います。これら事実を鑑みたとき、「かみつけの里博物館」の展示物等は、日本の古代史~現代史を根底から塗り変えてしまうかもしれない程のパワーを持っていると、私には考えられます。が、残念ながらそこまで言及するには至っていません。よって、そこに言及をしてはならない理由
これらを踏まえると、「ホツマツタヱ」に関して、国立公文書館との連携も図り、研究を推進してゆく必要性を強く感じます(資料4参照)。しかしながら、現状はそのようになっていません。 よって、「現状がそのようになっていない理由」
 
「榛名神社に伝わる古墳時代の鏡」とあります。この解説文(及び鏡の存在そのもの)は、「榛名神社と古墳時代との何らかの関わり」を示唆している、と考えられるのではないでしょうか。しかしながら、(p5)「現在の場所に榛名神社が祀られるようになったのはいつからか」及び(p8~10)「第1章 榛名神社の起源」に関しての文章中には、「榛名神社と古墳時代との何らかの関わり」に関して一切触れられていません。結局、本件図録の他の箇所も含め、この「榛名神社と古墳時代との何らかの関わり」に関して一言も言及していないことが、私には不思議でなりません。「榛名神社と古墳時代との何らかの関わり」に言及をしてはならない理由
 
「卑弥呼・魏志倭人伝・邪馬台国」と日本との関連性には、どれくらい信憑性があるのでしょうか。仮に「卑弥呼・魏志倭人伝・邪馬台国」が不確実な情報だとすれば、この不確実な情報と、「確実な存在としての古墳」とを、結びつける確実な情報は存在するのでしょうか。
そもそも、本件図録では、卑弥呼を日本にいた女王との前提(古代日本における、ある時期の史的エピソード)で捉えているようですが、その根拠
日本書紀と群馬の古墳とを結び付けないのは何故でしょうか。日本書紀には上毛野出身の人物が数人登場していますが、それらの人物と群馬の古墳とを結びつけることを、まず初めに考えてみるべきではないでしょうか。本件図録では、そこに一言も言及していないことが、私には不思議でなりません。よって、そこに言及をしてはならない理由
 
 日本書紀・古事記の原本とされている「ホツマツタヱ」との関連も検証するべきではな いでしょうか(ホツマツタヱにも群馬出身と推定される人物が登場しています)。
 国立公文書館保存文書「ホツマツタヱ」(資料1、2参照)は古事記・日本書紀の原書となっている文書であり、漢字以前の日本の古代文字(「ヲシテ文字」)であったという説があります。例えば、この「ヲシテ文字」によれば、画文帯環状乳神獣鏡(観音塚古墳から出土)の図柄は文字と捉えることも出来るのではないでしょうか(資料3、5参照)。これら事実を更に掘り下げてゆけば、「高崎市観音塚考古博物館」や「かみつけの里博物館」の展示物等は、日本の古代史~現代史を根底から塗り変えてしまうかもしれない程のパワーを持っていると、私には考えられます。が、残念ながらそこまで言及するには至っていません。よって、そこに言及をしてはならない理由
これらを踏まえると、「ホツマツタヱ」に関して、国立公文書館との連携も図り、研究を推進してゆく必要性を強く感じます。しかしながら、現状はそのようになっていません。よって、「現状がそのようになっていない理由」
 
<おわりに・・・・・通説を疑い、発想の転換を!>
 私は、古代史を最新科学中心の総合学として捉え直し、「古代歴史裁判」的発想で、証拠に基づいて検証をし、何らかの根拠・裏付けにより一連の説明をすることが必要と考えます。そのために、高崎市が「何らかの根拠・裏付けにより一連の説明をしている」のであろうと考え、その経緯・理由等を知りたいのです。もし、その経緯・理由を明確に答えられないとすれば、ある意味「不作為の作為」とも 取れ、責任回避または無責任とも捉えられなくもない。でないとするなら、更にもう一歩 踏み込んだ叙述の仕方を考える必要性を感じます。 多胡碑・金井沢碑・山上碑の説明では、肝心なところが、合理的説明に欠け、推測が一人歩きをし、「通説」となり、疑うという思考が停止してしまっていると感じます。 「榛名神社に伝わる古墳時代の鏡」では、完全に思考停止状態です。 古墳造りの方法等については、どんな図・設計図が描かれていたのか?」総合的に管理調整したり組織的に働く為には、どのような方法を用いていたのか?それらの為には、どのような数字や文字を用いて管理調整をしていたのか?」「当時の日本人の言語空有感は、やまとことば?・万葉仮名?漢字の当て字?」「文字数字を用いずに(?)・・・・どんな図・設計図が描かれていたのか?」
 これら「古墳の設計や構造」そして「石製模造品の流通システム」等の説明で示された状況は、それらを詳細に紐解こうとすればするほど、どう考えても「高度な言語体系や数字・数式等の体系」の内包なくしては成り立たない状況が多々見受けられます。
 これを裁判的に、状況証拠のみによる判断を試みると、「高度な言語体系や数字・数式等の体系」の存在は「合理的な疑い」を差し挟む余地がない程度に証明されている(和歌山毒カレー事件参照)、のではないか。もし漢字以前に文字は無かったとの前提に立てば、これらの「高度な言語体系や数字・数式等の体系」は「中国語漢字」か「万葉仮名によるやまと言葉」での表記だったことになる。しかしそれならば、万葉集・古事記・日本書紀のように、漢字もしくは万葉仮名で、何かしら残っているはずではないだろうか。つまり「それらの為に、どのような数字や文字を用いていたのか?」は、重要な関心事項です。
<発想をどのように転換すれば古代史学の道が開けるのか>魏志倭人伝を引用するのであれば、同じように「ホツマツタヱ」も検証するべきです。「ホツマツタヱ」は一次資料(オリジナルな情報)である、という仮説を立て、あらゆるデータを照合させて、その正否を判定する。「ホツマツタヱ」が一次資料なら、日本書紀はその漢訳であり、古事記は万葉仮名を交えた翻訳書ということになり、記紀の立ち位置も変わり、日本の古代認識も自ずから変化します。 それは、現代を生きる私たちの「生き方」に直結します。高崎市が率先して、公的に検証作業を始めることを強く要望します。
 
 
 
 
 
 
 
 

「縄文時代ですが、この時代の文字は確認されておらず」(教育委員会)という疑問点

 
 

 <高崎市及び群馬県とのやり取りを紹介する理由・意図>