「上野三碑」での疑問点・・・<製作中!>
「多胡碑」碑文中「羊給」について
高崎市ホームページ「多胡碑」解説文中、「読み方」の欄では「羊に給いて」とあり、「現代語訳」の欄では「羊に支配を任せる」とあります。また説明文には『建郡に際しては、「羊[ひつじ]という渡来人[とらいじん]と思われる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ』とあります。
このように解釈され現代語訳されている経緯・理由・根拠等を、高崎市内の中学生又は高校生に理解できるように、考古学・文献史学・国文学などの視点から教えて下さい。
「金井沢碑」碑文中「天地請願」について
「読み方」の欄では「天地に請願し奉る」とあり、「現代語訳」では「このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。」とあります。
このように現代語訳されている経緯・理由等を、高崎市内の中学生又は高校生に理解できるように、考古学・文献史学・国文学などの視点からその根拠を教えて下さい。
「山上碑」について・・・放光寺の跡地は山王廃寺?放光神社?
高崎市ホームページ・「上野三碑:山上碑及び古墳」に、「前橋市総社町にある山王廃寺[さんのうはいじ]から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺であると推定されています。」とあります。
また、下佐野第一公民館横にある放光神社には石碑(「史跡 放光寺放光明神跡」)及び解説文(「放光寺・放光明神跡」)があり、その解説文中には、「~この地が放光寺の跡地であると伝えられて来ました。一方、前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、山王廃寺の場所が長利の勤めていた放光寺と推定される説があります。」とあります。
この2つの解説に関しての整合性を教えてください。
質問事項(本文)(質問書1) 2/5(2020)
多胡碑 第 067-12 号 高崎市ホームページ・ユネスコ「世界の記憶」上野三碑・多胡碑の解説文中、下記の部分に関して
建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]と思われる人物が大きな役割を果たし、初代の長官になったようです。碑を建 てたのも、この「羊」であると考えられ、
質問1. 「羊」・「給羊」の解釈には諸説ありますが、高崎市ホームページで多胡碑を紹介するにあたり、高崎市が、諸説の中からこの解釈を採用した経緯・理由等
質問2 高崎市がこの解釈を採用するにあたり、その理由・根拠などが、古代史・考古学・漢字解釈などの観点から、学術的に説明・解説
第 100-15 号
質問3「羊」・「給羊」の解釈には諸説ありますが、高崎市ホームページ・ユネスコ「世 界の記憶」上野三碑・多胡碑の解説文中で多胡碑を紹介するにあたり、高崎市が、諸説の中からこの解釈(建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]と思われる人物が大きな役割を果たし、初代の長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、)を採用した経緯・理由等
質問4高崎市がこの解釈を採用するにあたり、その理由・根拠などが、古代史・考古学・漢字解釈などの観点から、学術的に説明・解説
それらについての解釈で、現在通説的位置を占めるのは、山ノ上碑の場合と同様に尾崎喜左雄の一連の研究である。尾崎は、碑文中の「羊」を「渡来人」(とらいじん)の人名であると考え、多胡郡の設置は、この地域に居住していた「渡来人」が、新興勢力である「物部」(もののべ)氏などに圧迫されて、多胡郡を建てることを律令(りつりょう)政府に申請して許され、多胡碑はそのことを喜んだ「渡来人」が記念碑として建てたものにほかならないとした。
P246ページでは、この尾崎説について以下のように言及している。
⊓」の文字瓦の「羊」も、類例の増加により「多胡郡辛科郷」の「辛」の異字体であることが明らかになっている。すでに言われてきているように、こうした文書に名のみでウジ名を示さないのは怪しむべきで、現状ではそうした説も、一つの可能性 があるという域は出ない。現在知られている文字資料に立脚する限り「羊」について、「吉祥句」であるとか「方位」であるとかいった可能性についても捨て去るべきではないと思われる。
しかしながら、高崎市ホームページでは、建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、と記述されている。これは上記・群馬県史・尾崎説と類似している。ということは、群馬県史にて「一つの可能性があるという域は出ない」とした尾崎説ではあるが、その後の調査・研究にて、「尾崎説に類似した、高崎市ホームページでの説明」を裏付けるなんらかの事実・証拠等が存在する(新たに発見された?)のではないかと思われる。
P239で尾崎説に疑問を投げかけている。多胡郡の設置については、現状では尾崎喜左雄の見解が定説的な位置を占めているが、近年の考古学的成果などからは、必ずしもこれを支持し得ない成果が知られつつある。
P245では尾崎説とは別の見解を示している。多胡郡の設置は、「(緑野屯倉[みやけ]あるいは)佐野三家」の中核的地点を含み、その中心的氏族である「三家毛人」ないし「物部君」氏を絡めた、全国的な 支配構造の整備に伴う律令的地域行政区分の改編に関する一連の政策の一つにほかならなかったと思われる。~(一部省略)~仮に「渡来人」が関係していたのであれば、本来的にこの周辺の地域に居住していたのではなく、その政策のために導入された政治的集団であったと考えるべきではなかろうか。そのように考えてくるならば、多胡碑が建立されたことの意味は、単なる「建郡の記念碑」にとどまらず、かなり政治的な背景があったことが予想される。
P246ページでは、結論のような論調で以下のように言及ている。多胡碑文中の「郡成給羊」を郡司の任命に関する語句であるとして、「羊」なる「渡来人」が郡司に任命されたとするのが通説である。しかし、尾崎喜左雄が重要な根拠として引用する「羊子三⊓」の文字瓦の「羊」も、類例の増加により「多胡郡辛科郷」の「辛」の異字体であることが明らかになっている。すでに言われてきているように、こうした文書に名のみでウジ名を示さないのは怪しむべきで、現状ではそうした説も、一つの可能性があるという域は出ない。現在知られている文字資料に立脚する限り「羊」について、「吉祥句」であるとか「方位」であるとかいった可能性についても捨て去るべきではないと思われる。
上野三碑パンフレット(八つ折り・平成29年10月18日発行)では、現代語訳で、羊に支配を任せる、とし、その解説では、建郡に際して「羊」と言う人物を郡司に起用したと解するのが主流ですが、「羊」を方位や別な字の略字とみなす学説もあります、と記述されている(ちなみに、このパンフレットは5年保存の保存期間は終了していない)。
高崎市ホームページでは、建郡に際しては、「羊[ひつじ]」という渡来人[とらいじん]とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、と踏み込んだ説が記述されている。
山上碑 第 206-13 号
質問6「弁明書・処分庁の主張」で、出典が、前橋市埋蔵文化財調査団『山王廃寺V遺跡発掘調査報告書』とあります。「放光寺はどこだったのか」に関して諸説ある中で「高崎 市がこの報告書の説を採用した理由」
金井沢碑第208-17号
質問7 高崎市ホームページ内・上野三碑・金井沢碑の原文「天地誓願」に関しての解説文中・現代語訳に、「このように仏の教えによって(我が家と一族の繁栄を願って)お祈り申し上げる石文である。」とあり、また、上野三碑パンフレット(八つ折り・高崎市教育委員会文化財保護課編集)にも、同様な解説があります。さて、石碑原文「天地誓願」を「仏の教えによってお祈り申し上げる」と解説するに至った根拠